ボランティア意識のすれ違い

キャリアカウンセリングでは、人間のひとつの役割を「市民」としている理論があります。
「子ども」「職業人」「ホームメーカー」「余暇を楽しむ人」「市民」
という何らかの役割を、
それぞれライフステージで担う(兼務)のですが、

さすがに外国の考え方で、人生の中にボランティアの存在が確立されているんですね。


さて、NPO法人は非営利団体なので、有給の職員を除き、
ほとんどがボランティアで成り立っています。
(これだと継続的な活動がいつまで続くかわからない不安が常にあるわけですが)


今、活動をしている夏休み みんなの一日大学(通称:ナツガク)ですが、
実費を除いてほとんど全部ボランティアで運営をされています。

もちろん、私も主催者=実行委員長ですが、1ボランティアです。

自主的に参加している人はそう思っていないのですが、
私からボランティアをお願されているような感じの方もいます。

「たのまれたから」ボランティアをやっている??

だから、何かの拍子にそれが露出して、「あれ?」ということが生じます。

また逆に
私は「みんながボランティアなんだから」という甘えが出ることがあります。

注意しなければ、思いのすれ違いが起きて、とんでもないことになります。

さて、
あるボランティアをやった元学生さんから聞いた話ですが、
「ボランティアをやった後に、使われたという虚しさが残った」という話を聞きました。

「ボランティアでもなんらか得るものがほしい」と言われたのですが、
ちょっと違和感を感じました。

ボランティアは使うとか使われるということではないし、
また、得るものを提示するようなものでもない。

確かにTシャツや昼食などの特典はあるのですが、
これをやればこういうことが身につきますなどは保障できないし、
あえて言うことでもないような気がしました。

そんなことを考えると、ボランティアって難しいと思うのですが、

難しく考えないで、「やった」「終わった」「よかった」「みんなが喜んでくれた」と
単純がいいのではないかと思いました。

お酒はあまり強くないのですが、
終わってみんなでビールをおいしく飲めればいいんじゃないでしょうか?

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